父のがん闘病記21 ~やっと念願の自宅に帰ってきた父~
2021年11月18日
21 こんにちは。声優の遠藤です。
8月に入り、便の状態が悪くなり、自宅から持っていった水素水と水素カプセルを飲ませることができなくなりました。この分だと、冬が山場だなと感じました。父は痩せているので寒さに弱い。夏の暑い時期にどれだけ体力を、体を元に戻せるかが勝負。少なくとも、活性酸素を除去する水素水はちょびちょび飲ませたいので、看護師さんに、便が通常に戻ったら、また水素水を飲ませたいので連絡をくださいとお願いしておきました。しかし、待てども暮せど連絡はきません。しっかりした施設なので、信頼はしていますし、まだ便の状態は良くないのかと言っている内に時間は流れました。私自身も1年以上休んでいた職場にようやく復帰し、新しい生活が始まっていました。そして・・・9月4日(土)に施設の井上さんから連絡があり、足のむくみに加えて、手もむくんできてしまって、この日は、今日は食べられねえやと言って、食事をほとんど摂らなかった。すぐにどうこうはないのですが、念の為、ということで報告をしてくださいました。
ところが、よく9月5日(日)新入社員の田中さんから9時過ぎに連絡がありました。朝から低体温で酸素吸入をしないといけない状態になり、意識レベルが低下しているとのことで、いつ来られますかという電話。もちろんすぐ行きますと言って母を連れて施設に向かいました。
目は半開きで、呼吸が酸素吸入をしているにもかかわらず79という数値。80で全力疾走をした後のハーハーっている状態と聞いて、相当危ない状況だと知りました。母が懸命に「お父さん目を開けて!」と何度も叫びましたが、わずかに口がパクパクするのが精一杯で、目を開けることも、喋ることもできませんでした。手を擦っても同じ。こっちの言っていることは、聞こえてますよということを教えていただいたので、あとのことは何も心配しなくていいよということは強く伝えました。その他、回復したら、またコーヒー飲ませてやるよとか、手をにぎりながら言っていたのですが、口をわずかに動かすくらい。そしてだんだん脈も弱くなり、静かに息を引き取りました。安らかな死でした。妹夫婦とその息子も後でかけつけましたが、間に合いませんでした。母も私も大泣きはしませんでした。それは常日頃から、この冬が山場だし、いつ死んでもおかしくないからねと言うのは母に言っておいたからに他なりません。父の死と同時に、前から相談していた葬儀屋にすぐ電話、斎場を押さえました。
石に死亡診断書を書いてもらったのが午後1時2分。私とは母は妹夫婦に施設に残ってもらい、医師がきたら受け取っておいてくれと頼みました。母と私は家に帰ったのです。というのも、まさかの急な事態だったので、1階には荷物があり、片付いていなかったからです。父が寝る布団も用意しなくてはいけません。お昼も食べました。
葬儀屋から死亡診断書を書いてもらったら迎えを出しますと連絡を頂いていたので、妹から医師がきたというその連絡を受け取ったので、すぐに葬儀屋に電話。2時半から3時にお迎えに行くとのことでした。その時、私がそこにいなくてはいけなかったので、急いで用意して、さてそろそろ出かければ丁度いいかなという時に、施設の修多羅さんから、葬儀屋さんが着きましたとの連絡。すぐ行きます!とバイクですっ飛んでいきました。到着寸前で前に白バイ。・・・父がもう少し慌てずゆっくり走れとの計らいをしたのかもしれません。そして、父はようやく念願の自宅に帰ることができたのです。その後、JAいるま野グループのいるま野サービス(葬儀屋)の担当の押野さんが丁寧に、この後の流れを説明してくださいました。死亡届をやっていただき、火葬許可証を取ってきていただきました。
家に一度帰って来た時に簡単に夕飯が食べられるようにとセットしておいた山菜ご飯を母と食べました。
二人とも、父が死んだという実感があまり沸かないという風でした。
著:遠藤章史
ナレーションを中心に芸能の仕事をさせていただいています。昨年から自宅録音での納品もしており、朗読、ナレーション、YouTubeやツイッターやブログ、フェイスブックなどのSNSでも発信中。父の膀胱がんが発覚してから様々な意見を取り入れながら思案・行動してます。父は認知症も患っており、排泄の粗相や、夜中と早朝の徘徊、時間に関係なく、人を呼ぶようになり、自宅での介護を断念。ショートステイを繰り返していましたが、現在は老人介護保険施設に入居しております。父の体力の回復、ガンと、どううまく付き合っていかせるかを模索中の毎日です。